茶道の歴史とは?日本が誇る伝統文化茶道の成り立ちを知る

モテナス代表
モテナス代表

茶道は、日本が誇る伝統文化ですが、その歴史や成り立ちをすべて知っているでしょうか?

茶道がひろく普及したのには、多くの経緯があります。

この記事では、茶道の歴史、起源を解説しつつ、関わった人物として名のある千利休や「侘び寂び」の精神についても紹介しています。

茶道をする前に、知っておくとより深く茶道を楽しめる知識を豊富に詰め込みました。ぜひ最後までご覧ください!

目次

茶道の起源

茶道は、お香を鑑賞する「香道(こうどう)」や「華道(かどう)」とならぶ三大古典芸能とされています。

その起源は9世紀(西暦801年〜)に、永忠という仏教の僧侶が中国から日本にお茶を持ち帰り、嵯峨天皇お茶を献上したのが最初とされています。遣唐使として唐(現在のモンゴルや中国)へわたっていた「最澄(さいちょう)」や「空海(くうかい)」などの有名な僧侶も儀式に茶を用いたり、天皇に茶を献上していました。

このように、お茶が日本に入ってきたのは僧侶が中国から持ち込み、広めたことが起源なのです。

お茶は修行中の眠気覚ましや、健康増進にも役立つとして伝わり、モダンな飲み物として国内で人気を博したとされています。

茶道が現在に至るまでの歴史

中国から日本に伝わったお茶の文化は、様々な形で日本国内に広まっていきます。ここからは、茶道が日本に伝わってから、現在に至るまでの歴史を紐解いていきます。

日本国内での広がり

日本へ流入したのは、僧侶が中国から持ち込み広まりましたが、当時のお茶は現在とは違い、蒸した茶葉を団子状に固めたものでした。

唐で用いられていた飲茶様式で、お茶の色は鮮やかな緑ではなく微発酵した「茶色」でした。現在良く使われる色である「茶色」はこれがルーツとされています。

お茶が大流行した鎌倉時代

鎌倉時代に入ると「栄西(えいさい)」という僧侶が「點茶(てんちゃ)」や「挽き茶(ひきちゃ)」と呼ばれる粉末状のお茶を等から持ち帰ったことを、「喫茶養生記」という本に記しています。

栄西から渡されたお茶の種は、京都の栂尾で栽培が始まったのち、宇治へと伝わったことで現在も見聞きする「宇治茶」の期限となりました。

鎌倉時代末期には、飲んだお茶を栂尾で栽培された「本茶」か他の場所で栽培された「非茶」かを当てる「闘茶(とうちゃ)」という文化が流行します。宮廷で行われていた遊びが、庶民に伝わり賭博化されて大流行したとされています。

侘び寂びが誕生する室町時代

室町時代になると、宇治茶が本茶と扱われるようになりますが、依然として武士の間では当茶が熱狂的に流行していました。時の武将である足利尊氏が制定した武家法の中で闘茶を禁止するほどでしたが、室町時代中期には「応仁の乱」が起き、お茶文化を楽しむ状況ではなくなります。

ときを同じくしてならの僧侶である「村田珠光(むらたじゅこう)」は、武士の闘茶や貴族の茶会を否定し、質素な茶室で日本の茶道具を用いる新たな世界を創り出します。これが「侘茶(わびちゃ)」の起源とされ、侘び寂びの原点ともされています。

茶道の誕生

室町時代後期に、8大将軍の足利義政が隠居地に建てた屋敷で侘茶と唐物の品評会を開催するなど、東山文化が花開き、儀礼作法などが確立します。さらに、村田珠光の提案した侘茶を受け継いだ弟子の「武野紹鴎(たけのおうがい)」が和歌を創作する精神をわび茶に活かします。

これらの侘茶は、竹野鴎外の弟子である「千利休(せんのりきゅう)」に受け継がれます。利休はそのセンスを活かし、茶室に茶道具を運び入れる行為も作法の1つにするなど、新たな流儀を打ち立てながら侘茶を完成させました。

また、高名な7人の武将が千利休の高弟となり、利休の打ち立てた侘茶の普及に大きく貢献しました。
この武将により江戸時代には町人階級でもお茶が親しまれ、芸道として受け継がれていく茶道が本格的に成立したとされています。

茶道を完成させた千利休の生涯

茶道の話をする中で必ず出てくる人の1人に「千利休」がいます。この急は具体的にどのようにして茶道を完成させたのでしょうか。その経歴を深堀知りしてみましょう。

千利休がお茶を学んだきっかけ

千利休は西暦1522年に大阪の堺にあたる、和泉国で生まれます。幼名は「田中与四郎」といい、これが千利休の本名です。一般に知られる「利休」という名前は1585年、豊臣秀吉の献茶に奉仕するのに町人では参加できないため、正親町天皇から与えられた居士号です。

そんな千利休は、教養の1つとして17歳の頃から茶の湯を習い始めます。師匠は堺の茶匠「北向道陳(きたむかいどうちん)」で、修業を重ねた利休は自身が23歳のときに初めての茶会を開き、成功を収めたとされています。

その後も修行に励んだ利休は茶人として知られるようになり、堺の支配者であった三好一族の女性と結婚し、三好家の御用商人として家業に打ち込みました。

茶道で戦国時代を生きる

堺が織田信長の直轄地となっていく過程で、利休は茶道における地位を高めていき、信長から一目置かれます。その後、豊臣秀吉の茶頭を務めるなど存在感を示しますが、秀吉との関係は長く続きません。

不和が生じたことで豊臣秀吉の逆鱗に触れてしまった利休は切腹を命じられ、京都にある聚楽屋敷内で自害をし、その生涯を終えました。

切腹の命令には、前田利家などが助命嘆願しますが聞き入れてもらえなかったことや、屋敷の近くで晒し首にされたこともあり、秀吉の怒りは相当であったものとされています。

茶道でよく聞く侘び寂びとは

茶道について学んでいると、よく見聞きするのが「侘び寂び」という言葉です。

侘び寂びにはどのような意味が含まれているのでしょうか?また、どのような様子を侘び寂びと呼ぶのでしょうか?

ここでは、侘び寂びについて解説していきます。

侘び寂びの生みの親が残した手紙

侘び寂びの概念を生み出したとされる村田珠光は、「心の文」と呼ばれる手紙を残しています。

「茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは慢心と自分への執着である。巧者をねたみ、初心者を見下すことなく、良い道具を十分に味わい、堪能し、心の根底から高い品格を養い備えた上で、全てを取り払い、枯淡の境地に至ったときこそ面白い。」

※一部抜粋

当時はまだ「茶道」という言葉は生まれていませんでしたが、すでに「茶の湯」という言葉でそれらしきことを表現しています。

この心の文は、茶道を志すうえで非常に重要な意味を持っており、茶道がお茶を飲む行為だけではなく、心の底から品格を養い静寂な心を持ったときこそ、深く楽しめるということを示しています。

侘び寂びを完成させた千利休

村田珠光の心の文を受けた千利休は、形式よりも精神性を重んじた茶道を完成に導きます。

主人とお客が互いに尊敬しあい、おごらない気持ちで接するという「和敬清寂」の心をもとに、より本質的に捉えたのです。和敬清寂には以下のような意味があります。

和・・・お互いに心を開いて仲良くする

敬・・・お互いに尊敬し合う

清・・・見た目だけでなく心の中も清らかである

寂・・・どんなときにも動じない心

侘び寂びは千利休によって完成した精神の1つですが、それを上手に表現した言葉です。

質素・簡素な様子を表す「侘しさ」を、時間の経過とともににじみ出る贅沢のない空間で、穏やかに精神を研ぎ澄ます。世界でも稀な日本人の美意識を表したのが「侘び寂び」の世界といえるでしょう。

まとめ

この記事では、茶道の歴史やそれに関わった人物について紹介しました。歴史やその成り立ちを知ることで、より深く茶道について理解できたのではないでしょうか。

茶道は、日本人特有の「侘び寂び」の精神を大切にしている伝統文化です。海外の人からはすんなり受け入れられる精神とはいい難いですが、誰もが胸に刻んでおきたい精神と言えるのではないでしょうか。

モテナス日本では、茶道とマナーを組み合わせた企画なども行っています。その精神を理解したうえで外国人と一緒に「侘び寂び」の精神を学んでみてはいかがでしょうか。
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この記事を書いた人

30代男性ライター。ホテルに16年間勤務し、旅行業界に携わる。旅行代理店やホテルでの仕事を通じて旅行に興味を持ち、よく旅行に行っています。好きな都市は仙台と博多です。旅を通じて得た知識や日本の魅力を丁寧に伝えていきます。

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