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みなさんの中には、学校の授業で「柔道」を学んだ方も多いことと思います。
ですが、柔道の歴史までは知らないですよね。
実は柔道の歴史は古墳時代まで遡ることができるほど長く、紆余曲折ありながら現代まで受け継がれてきているのです。
今回は、世界中で愛されている日本の伝統武道「柔道」の歴史を深堀りしていきますよ。
柔道の起源・源流
まず、柔道がどのように生まれたのかを見ていきましょう。
柔道とは
柔道とは、武士がおこなっていた「柔術」から生まれた武道です。
武士は戦場で戦うことも仕事ですから、体を鍛えなくてはいけません。
そして体を鍛えることに加えて、接近戦を想定した「組み討ち」なども稽古されていました。
組み討ちとは素手をつかって相手と戦う方法で、今の柔道につながる「投げ技」や「締め技」といった技も存在しました。
さらに精神の修養も目的としており、その精神は柔道にも「精力善用(せいりょくぜんよう)」と「自他共栄(じたきょうえい)」として受け継がれています。
- 精力善用(せいりょくぜんよう)
…「何事をするにも、その目的を達するために精神の力と身体の力とを最も有効に働かす、ということ」(引用元:精力善用|講道館) - 自他共栄(じたきょうえい)
…「相互に融和協調して、共に生き栄えること」(引用元:自他共栄|講道館)
上記の理念は、後に解説する柔道の創始者「嘉納治五郎」により提唱されたものですが、武士が行なっていた柔術の影響も色濃く受けています。
武士による「武芸」が盛んに
柔道は柔術から生まれた武道だと先述しましたが、この柔術のもとになったのが「武芸」。
武芸とは、武士が戦場で相手と戦うために身につけた技とされ、柔道のもととなった「柔術」や弓矢をつかった「弓術」、鉄砲をつかった「砲術」なども含めた総称のことです。
実は武芸がいつ頃生まれたのか、というハッキリした記録は見つかっていませんが、古墳時代にあたる5世紀末ごろには弓矢をつかった武芸「弓術」があったとされる出土物が見つかっています。
そこから平安時代や戦国時代を経て武士の文化が盛んになり、武芸の1つとして柔術も発展していくこととなります。
江戸時代には柔術に流派が誕生
江戸時代になると、武芸の中の「柔術」にさまざまな流派が誕生しました。
この流派が、それぞれの師から弟子へと継承され修行者も増えていきます。
江戸時代では柔術は武士のたしなみとされていたほど、武士の中では広く浸透していたようですよ。
また武士以外の町民や農民でも柔術を学ぶ人がおり、当時は勢いのある武術だったことがわかります。
しかし、そんな柔術も時代の移り変わりとともに陰りが見えることとなるのです。
明治時代|「柔術」から「柔道」へ
明治時代に入ると、西洋文化が多く取り入れられるようになります。
その影響もあり、江戸時代まであった柔術の勢いは弱まっていきました。
そんな時、柔術に新たな風を吹き込んだのが「嘉納治五郎」という人物。
熱心な柔術の修行者であった嘉納治五郎は、柔術のさまざまな流派の長所を組み合わせた「柔道」を確立させたのです。
【講道館の設立】門下生9人からスタート
明治15年(1882年)嘉納治五郎が23歳のときに、柔道の修行場として「講道館」が設立されました。
この時の門下生は、なんとたった9人だったそう。
現在は世界の200以上の国や地域が国際柔道連盟に加盟(2024年2月現在)していますが、講道館の設立当初は、国を超えて海外にまで普及するとは想像しがたかったかもしれませんね。
嘉納治五郎が設立した講道館は、現在も柔道の総本山として多くの修行者を抱えており、海外からの修行者も門を叩くような柔道の聖地ともいえる場所になっています。
女性の柔道修行者も増え始める
それまでは男性の修行者のみであった柔道に、女性修行者も増え始めるのは明治時代の中頃。
当時の修行者には教師をしている女性も多く「教育指導のためには教養や体力だけでなく、自身の精神的な修行も必要」と考えられ、すでにこの頃から柔道の精神が注目されていたようでした。
さらに大正時代には、護身法も含めた初の女子柔道講習会も開催するなど、さらに女性の柔道修行者も増えていくこととなります。
嘉納治五郎がIOC委員に就任
明治42年(1909年)、嘉納治五郎は東洋初のIOC委員に就任します。
嘉納治五郎は柔道に「技のみではなく精神も磨く」といった想いを込めていましたが、このようなスポーツによる教育改革に熱心な姿が、当時のIOC会長の心を打っての選出だったそうです。
そして就任から約30年、初めての日本でのオリンピック開催を決める偉業も成し遂げました。
当時のオリンピックはほとんどの参加者がヨーロッパやアメリカからでしたが、IOCは「オリンピックを世界的なものにしたい」という思いがありました。
しかし当時は飛行機などが発達していなかったため、渡航距離が遠い国の参加はなかなか叶わなかったのです。
日本とヨーロッパ間の渡航も、船やシベリア鉄道で半月以上もかかっていたというのですから、参加に消極的になる国が多いのも無理はありません。
嘉納治五郎はこの事実を逆手に取り、東京へのオリンピック招致に取り組みました。
当時、日本人選手はオリンピックへの参加を始めていたため「そのような遠距離にもかかわらず、日本からは1912年以来毎回多くの選手が参加している、従って欧米の選手がそのような日本に集まることなど、日本選手団の苦労からすれば大した事はない、むしろそうすることでオリンピックが欧米のものから世界的な文化になる」(引用元:JOC – オリンピズム | オリンピックムーブメントと嘉納治五郎)という主張をしたのです。
その結果、昭和15年(1940年)に東京オリンピックの開催が決定。
残念ながらこの東京オリンピックは、同じ頃に起こった日中戦争の影響により実現には至りませんでしたが、嘉納治五郎がオリンピック招致へ向け、海外と積極的に親交を深めたこと、その中で柔道の紹介も行われたことが今日の柔道の繁栄につながったとも言えます。
昭和時代|国内で柔道が大衆化
日本国内で柔道が広く浸透したのは、昭和に入ってから。
それまでも柔道は着実に修行者を増やしていましたが、昭和時代のとあるできごとを機に競技者が急増することとなります。
柔道が学校の正式科目に採用
昭和6年(1931年)、柔道は学校の正式科目になりました。
学生たちが柔道に触れる機会が増え、全国で大会も開催されるように。
このできごとが、柔道の競技者が急増したきっかけとも言えるでしょう。
さらに警察官の育成過程にも採用されたり町道場も増えたりと、柔道は国民的な武道へと成長していきます。
戦争のための柔道教育へ変化
国民的な武道へと成長していた柔道ですが、第2次世界大戦によって立ち位置が少しずつ変わり始めます。
柔道が精神の修行目的だけでなく、実戦での攻撃を視野に入れた内容へと変わっていったのです。
これは戦争が長期化したことにより、本土での決戦も起こる可能性があったため。
当時の子供たちは柔道だけでなく剣道、銃剣道も国民学校(現在の小学校に当たる学校)の授業として学んでいたそうです。
敗戦により武道が禁止に
昭和20年(1945年)の終戦と同時に、柔道を含めた武道が禁止となります。
これは戦後、日本を占領していた連合国軍による命令でした。
連合国軍は、武道こそが日本を軍国国家へ導いた要因だと思ったのかもしれません。
実際、戦時中は武道が攻撃の手段として訓練に取り入れられていましたが、同時に武道は日本人にとって先人から受け継いできた大切な伝統でもありました。
そこで連合国軍の禁止令を受けながらも、地道に武道復活への行動を始めるのです。
戦後|柔道が復活、海外へも広がる
終戦直後には禁止されてしまった柔道ですが、先人たちの努力や信念によって無事に復活を遂げることとなります。
また海外への広がりも見せるなど、戦前以上の発展も見せていくのです。
学校教育から柔道が復活へ
戦後に柔道が禁止されてからも、柔道の総本山である講道館をはじめ国会議員や学校柔道の関係者たちは「柔道をどうにか復活させたい」という思いを募らせていました。
その思いを汲んだ文部省は、終戦の翌年から連合国に対して柔道や剣道・弓道のデモンストレーションを行っていたそうです。
この努力が実り、日本の武道に対する連合国の見解も好転。
終戦から約5年後の昭和25年(1950年)に、中学校以上の限定として学校柔道が復活します。
ただし、この時はまだ「武道」としての位置づけではなく、あくまで「スポーツ」として学校教育に復活したのでした。
全日本柔道連盟が結成
学校柔道が復活するのと同じ頃、全日本柔道連盟も結成され、本格的に復興の兆しが見え始めました。
全日本柔道連盟は現在も残る組織で、毎年多くの柔道大会を開催しています。
学生向けの大会はもちろんのこと、全国警察柔道大会なども開催され、日本国内での柔道の盛り上がりが復活していきます。
初の世界柔道選手権大会が開催
初めての世界柔道選手権大会が行われたのは、昭和31年(1956年)のこと。
終戦から10年余りで世界大会まで開催できたとは、当時の日本が凄まじい勢いで復興していったことを感じ取れますよね。
初めての世界大会の開催場所は、東京の蔵前国技館。
蔵前国技館は現在は取り壊されてしまいましたが、当時は日本初のプロレスの国際試合なども開催され、数々の名勝負が生まれた場所であったそう。
そんな蔵前国技館で行われた初の世界柔道選手権大会は、日本人が見事に優勝を勝ち取りました。
そして初の世界柔道大会から8年後、柔道は更なる飛躍を遂げることとなります。
柔道がオリンピックの正式種目へ
今ではオリンピック競技として定着している柔道ですが、オリンピックの正式種目に採用されたのは昭和39年(1964年)のこと。
柔道の創始者である嘉納治五郎の没後20年余り、オリンピックの正式種目への採用は、柔道史の中で大きなターニングポイントであったと言えるでしょう。
これも、国際柔道連盟やヨーロッパ柔道連盟の熱心な働きかけがあったからこそ。
オリンピックの競技へと採用されたことで、柔道は世界的なスポーツの仲間入りも果たしたのです。
現代の柔道とこれからの発展
今後の柔道は、どのような歩みを進めていくのでしょうか。
明治時代に生まれ、昭和時代に海外へと発展も遂げた柔道。
これまでは凄まじいスピードで競技者を増やしてきましたが、現代の柔道の立ち位置を見ていきながら、今後の柔道についても予想してみましょう。
中学校が武道必修化へ
まず、国内では平成20年(2008年)に中学校の武道必修化が定められました。
それまでも柔道を体育の授業へ導入している学校はありましたが、武道必修化によってさらに多くの学校が柔道を取り入れることとなるでしょう。
現代では西洋のスポーツの方が気軽に競技しやすく、武道は敷居が高くて堅苦しいイメージを持つ学生も多いので、体育の授業で初めて柔道に触れるというケースも少なくありません。
実際に柔道を学ぶことで関心を掻き立てられたり、親近感をもつ学生もいるでしょう。
「自分では、道場へ柔道を学びに行く機会がない」という学生も、学校の授業として柔道に触れる機会ができればその魅力を知ることができ、結果として未来の競技者が増えて後世へと受け継がれていくのではないでしょうか。
また国際化が進んだ現代では、海外での柔道教育も目立ち始めています。
海外の学校教育にも柔道が導入
柔道は、ブラジルの学校教育に多く取り入れられるようになってきています。
実はブラジル国内で柔道は人気のスポーツで、競技者は200万人以上(2024年2月現在)と日本の競技者を上回るほど。
柔道の教育的な側面も相まって、ブラジルの貧困地域の教育へ活用する動きもでてきています。
国境も貧富の差も超え、多くの人々が柔道に触れる機会が増えることで、今後も柔道界が盛り上がっていくこととなるでしょう。
現在は柔道の一番の強豪国は日本ですが、今後は海外の柔道選手の成長も目覚ましいかもしれません。
そんな海外の選手と切磋琢磨しながら、日本人選手も技と精神を磨き、柔道が国際交流の架け橋となることを願っています。
まとめ
明治時代につくられ、現在では世界中に競技者が広がった柔道。
遡ると古墳時代からその源流は存在していたとされ、武士文化や明治維新、世界大戦といった時代の波に翻弄されながらも、先人たちが現代まで継承してきてくれました。
日本の古き良き精神も詰まった「柔道」をこれからも守り、誇りに思いながら受け継いでいきたいですね。
【参考サイト】
「講道館柔道の歴史 | 講道館」
「柔道の歴史/ホームメイト」
「JOC – オリンピズム | オリンピックムーブメントと嘉納治五郎」
「ブラジルの柔道の歴史 | 日本ブラジル中央協会 WEB SITE」
【参考書籍】
「柔道 その歴史と技法」(平成26年3月20日出版、藤堂良明・著)
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