相撲といえば、日本の誇るべき国技。
とはいえ、日本人であっても相撲の歴史を知っている人は少ないですよね。
実は相撲は「日本書紀」や「古事記」といった神話にも登場し、その歴史は約1500年以上とも言われているのです。
今回は日本の国技【相撲】の歴史を徹底深堀りしていきます。
日本の伝統文化について知識を増やしておくことで、外国人の方との接待でも一味違った会話を楽しめるようになりますよ。
相撲の起源とは
まずは相撲がどのように誕生していったのか、その起源をみていきましょう。
実は、相撲がいつ起こったのかという詳しい時期についてはわかっていないのですが、6世紀はじめの古墳から男子力士像の埴輪が出土しています。
この男子力士像の埴輪は、上半身が裸の男性で腰にふんどしのような布を巻き、中腰ぎみで両手を前に突き出したかたちなのだそう。
つまり、今日でも私たちが思い浮かべる相撲の構えは、この頃から存在したのかもしれません。
このことから、古墳時代にはすでに相撲の原型とされるものがあったと考えられています。
それでは、どのような道のりで相撲が形成されていったのかをみていきましょう。
「力比べ」が相撲へと進化
相撲は、力比べが起源とされています。
もともと「相撲」という単語は「すまふ」という語からきているとされています。
「すまふ」とは「あらそう」「あらがう」といった意味で、格闘、すなわち力比べを指した語だったそう。
この相撲に似た力比べは、古来から日本各地で行われていました。
ただし古来の力比べはキックやパンチなども繰り出されるような、いわゆる「取っ組み合い」のような形だったと言われています。
それが次第に、力比べをする前に四股をふみ「地の邪気を祓って清める」など相撲の原型ができあがっていきます。
祭りの儀式として相撲が受け継がれる
相撲は数100年ほど、祭りの儀式として受け継がれていたと考えられています。
とくに相撲は、農耕儀礼として豊作を祈ったり収穫を占うために行われていました。
「日本書紀」や「古事記」といった書物に、神話として相撲の原型である闘いが登場するのもこの頃。
つまり相撲は、この神話の時代から現在にいたるまで継承されてきたということです。
さらに平安時代になると、朝廷の年中行事として「相撲節会(すまいのせちえ)」と呼ばれる相撲会が行われるようになります。
「相撲節会(すまいのせちえ)」は、7月7日に豊作の祈願や感謝をこめて行われていました。
それから鎌倉時代に入るまでは、相撲は農耕儀礼、そして宮廷行事として受け継がれていきます。
武士文化の中で愛された相撲
鎌倉時代に入ると武士が中心の時代となり、相撲は武士の訓練として行われるようになりました。
その中で、相撲見物を楽しむ武士や武将も増えていきます。
たとえば鎌倉幕府をつくったことで有名な源頼朝も相撲を好んで見物したそうですし、鶴岡八幡宮には、多くの武士たちが相撲を見物した記録も残っています。
現代でいうスポーツ観戦のような感覚で、戦国武将や武士たちも相撲の闘いを観戦していたのかもしれませんね。
そして安土桃山時代には織田信長も相撲見物を好んだとされ、安土城に1000人以上もの力士を集めて相撲を取らせた記録も。
強い力士へは、褒美を与えたり家臣として召し抱えたこともあったようで、相撲を深く愛好していたことが分かりますね。
この織田信長が催した相撲大会では、進行や勝敗を決める役目として初めて「行司」が出現します。
現代の相撲にも欠かせない行司の存在は、安土桃山時代から400年以上も変わらずに受け継がれているのです。
江戸時代|相撲の人気が急速に高まる
江戸時代になるとそれまで武士の娯楽だった相撲が、大衆にも浸透します。
歌舞伎に負けず劣らずの人気があり、その勢いの中で現代の相撲へと繋がるさまざまな変化も起こりました。
それでは江戸時代の相撲の変遷を、もう少し詳しくみていきましょう。
力士を職業とする人が現れ始める
江戸時代になると「歓進相撲(かんじんすもう)」という、お寺の修繕費や寄付を集める目的で行われる相撲が盛んになります。
それまでも観進相撲は行われていましたが、大衆からの人気が高まったことで興行的な観進相撲が行われるようになり、とうとう力士を職業とする人々も出現。
当時は第11代将軍の家斉(いえなり)、第12代将軍の家慶(いえよし)といった人物たちも相撲見物をするなど、庶民から将軍に至るまで、身分に関係なく大勢の人々が娯楽として相撲見物を楽しんでたようです。
そして相撲の人気が高まったことで力士の競争率も高まり、伝説に残る力士たちも誕生することとなります。
3大強豪力士の誕生
江戸時代には、3大強豪力士と呼ばれる絶対的王者たちがいました。
- 谷風 梶之助(たにかぜかじのすけ)
…推定身長が189cm、体重162kgとされる日本人離れした体格で、持ち前のパワーを使い63連勝もの連戦連勝を飾った記録も。 - 小野川 喜三郎(おのがわきさぶろう)
…体が小さく、推定身長176cm、体重116kgほどだが、スピード感があり技巧派な強豪力士だったとされる。 - 雷電為右衛門(らいでんためえもん)
…推定身長197cm、体重169kgと言われており、大関の栄位を16年以上も保持していた。怪力だったとされており、相手力士の安全のために禁じられた手もあったそう。
さらに3大強豪力士だけでなく他の力士たちも強さを極めていた時代で、それを表すエビソードとして黒船来航時に披露された相撲も有名。
江戸時代の末期ごろの1853年、黒船が浦賀へ来航した際に力士たちが相撲稽古を披露したり米俵を運んで見せたりといった見世物を行った記録が残っていますが、中には一気に8俵を運んだ力士もおりアメリカ兵を驚かせたのだそう。
米俵は1俵で約80kgと言われているので、約600kg以上のお米を1人で運んでしまったと考えると驚きですよね。
江戸時代にルールが確立していく
江戸時代は相撲のルールが確立していった時代でもあり、現代にも受け継がれてます。
たとえば土俵を円のかたちに定めたり、勝負のきまり手(勝ちが確定する技のこと)が定められたのは江戸時代のこと。
さらに相撲に詳しくない人でも耳にしたことのある、相撲の最高位「横綱」が確立したのも江戸時代でした。
また今日でも見られる力士の髷、日常生活における着物の着用も江戸時代から変わらない姿。
つまり現代の相撲は江戸時代に確立され、約150年以上が経った令和時代まで大切に守られ受け継がれてきたのです。
とはいえ、さまざまな時代の波に揉まれながらも相撲を守り受け継ぐことは、簡単ではありませんでした。
とくに江戸時代が終わった明治時代の初期ごろは、相撲にとって大きな危機に直面した時期だったと言えます。
明治時代~昭和時代|衰退の危機と地位の確立
明治維新によって西洋の文化が入ってくると、世の中が目まぐるしい速さで変わっていきます。
その時代の影響でさまざまな日本の伝統文化が衰退の危機に直面しますが、相撲も例外ではなく「古いもの」という風潮が広まりました。
そんなとき、相撲の存続に力を貸したのが明治維新の中心にいた西郷隆盛たち。
西郷隆盛をはじめ黒田清隆といった人物からの援助の結果、力士の断髪令の免除や女性の相撲見物の許可などが下り、無事に存在を保つことに成功するのです。
ただしそこから江戸時代のような盛り上がりが復活するわけではなく、15年以上は人気の低迷が続きました。
人気が回復するキッカケとなったのは、明治17年(1884年)に明治天皇が見物した天覧相撲。
このときの相撲は大熱戦となり、それが評判を呼んだことで相撲の人気が回復していきます。
初代国技館が建設される
明治天皇の天覧相撲から約25年が経った明治42年(1909年)、相撲常設館として初代の国技館が建設されました。
それまでの相撲は神社の境内などで行われていたため、相撲専用の建物はこの時に初めて建てられたことに。
初代の国技館は一度に約1万3千人もの観客を収容することができ、多くの人々が相撲見物を楽しみましたが、建設から約8年後の大正6年(1917年)火災により全焼してしまいます。
そのあと大正9年(1920年)に再建されますが、今度は大正12年(1923年)の関東大震災によって焼失するなど、災害に見舞われました。
そんな中、国技館や相撲興行の継承に欠かせない団体が設立されることとなります。
大日本相撲協会の設立
大正14年(1925年)に「大日本相撲協会」が設立されました。
この団体は「日本相撲協会」として現在も活動が受け継がれており、力士の育成や巡業の開催など、相撲の継承と発展を行っています。
また大日本相撲協会は、昭和時代に入るとそれまでの相撲の土俵やルールの改革にも力を入れました。
土俵・ルールの改革
江戸時代から継承されていた相撲のルールですが、昭和時代になると土俵の形式やルールにさまざまな改革が行われました。
- 昭和2年:仕切時間の設定
…ラジオ放送の時間内に試合を終わらせるための時間改定 - 昭和6年:土俵の改革
…観客に相撲をより長く楽しんでもらうため、土俵の大きさを広げた - 昭和27年:四本柱の撤廃と吊り屋根・四色の房の採用
…観客から土俵が見えやすいよう柱を撤廃し、天井からの吊屋根と四色の房へ改革
▼今も国技館に残る「吊り屋根と四色の房」
ラジオ放送など、時代の変化を上手く利用しながら観客がより見物しやすいものへと改革されていった昭和時代の相撲。
柔軟に変化をしながらも伝統は残し継承してきたからこそ、相撲は国技として今日も人々から愛されているのでしょう。
これからの相撲とは
もともとは力比べや農耕儀礼として起こった相撲ですが、日本の国技と呼ばれるまでに成長し現代まで受け継がれてきました。
では、これからの相撲はどのように成長し継承されていくのでしょうか。
現代における相撲の立ち位置を受け、今後の相撲界の成長を予想してみましょう。
女性や海外VIPもハマる現代相撲
かつては武士や武将といった「男性が見物するもの」とされていましたが、現代では相撲ファンに女性や海外VIPも多く見られるようになりました。
とくに女性ファンの中には「スー女」と呼ばれ、力士をアイドルのように「推し活」する女性もおり、まさに現代的な相撲見物の仕方と言えるでしょう。
これは相撲界がテレビなどのエンタメ媒体への出演、SNSの活用なども積極的に行い、時代に対応してファン層を拡大しているからと言えるでしょう。
さらに海外の大統領を国技館の相撲観戦に招待したり、過去にはホワイトハウスで相撲を行うなど、海外でも積極的に披露をしてきました。
その結果、海外VIP層にもファンを構築し国技としての相撲の位置づけを確立。
日本人だけでなく、海外の人々にも「相撲は日本の国技」という印象を植えつけつつあります。
外国人力士も相撲界を盛り上げる一員に
近年では、外国人力士の存在も目立つ相撲界。
たとえば朝青龍や白鵬といったモンゴル出身の力士が横綱となったり、ブルガリア出身の琴欧洲が大関へと昇進したりと日本人力士に負けない勢いを見せています。
海外出身の力士が活躍しているということは、それだけ相撲が海外の人にも魅力的に映っているということであり、日本の相撲界側も柔軟に海外出身の人々を受け入れている証拠でもありますね。
ただし相撲は、どれだけ外国人力士が増えてもその風習や精神を江戸時代から変えていないことも人々から愛される理由です。
相撲は「勝ってもガッポーズをしてはいけない」という武道に通ずる精神や、日常生活における髷(まげ)や着物の着用など、江戸時代から変わらない伝統のスタイルを守っています。
そういった精神や伝統は海外の人にとって新鮮であり、魅力的なもの。
これからも先人たちがそうしてきたように、時代の波には柔軟に対応しながらも、相撲の精神や伝統は守りながら継承していきたいですね。
まとめ
神話の時代から、約1500年以上もの歴史をもつ相撲。
かつては宮廷や武士の間で受け継がれてきたものが、現代では性別や国籍も問わず、誰でも観戦できる存在になりました。
これは江戸時代からの伝統や精神を大切に守りながらも、積極的なSNS活用やエンタメ媒体への出演といった時代の流れにも順応してきたからこそ、現代まで発展しながら継承することができたのです。
私たちも相撲の歴史を知り、その奥深さや魅力を知ることで「これからの相撲」を守り続けていきましょう。
【参考サイト】
「日本相撲協会公式サイト」
「大相撲の起源と武士/ホームメイト – 刀剣ワールド」
「「国技・相撲」 – 国立国会図書館」
【参考書籍】
「相撲の歴史」(平成6年6月30日出版、新田一郎・著)
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